□19歳、社会的焦り、バイトの面接□

正直、何の薬が効いたか分からないが 当時処方されていたのは、デプロメールや アナフラニール、抗不安剤などだったと思います。 それを約、1年弱飲み続けたのかな。 気分の悪い日は除いて。

この薬を飲んだら治るという概念なんて当時 から無かったし、思春期のすぐ治る病気と思っていた。 効果が出たのか、焦りを感じたのか詳細不明だが 行動は幾らか出来るようになっていた。

対人恐怖も徐々に薄らいでいった。 そこで、何冊バイト雑誌を買って職を求めたのか 分からない。 何時の間にか、雑誌の山になっていた。 その中で手に職を付けたいとその手の会社にTelするも 条件が厳しく、アウト。 それが50回は繰り返した。
インターネットも安定してきた時期で 「ネット依存」「完全なる昼夜逆転」「ダイエット」 という生活構成になっていた。

僕は欲しい楽器が当時からあってその楽器は 幻と呼ばれるほどの楽器、キーボードだった。 僕自身は、それ以前にも高価なキーボードなどを 何度も両親に買って貰っている。 それを当時の Yahooの無料オークションで売っては買い、売っては買い を繰り返していて、「ネットオークション依存」にも なっていた。

後悔があるからこそ、自分の手で手に入れたいと 願っていた。 しかし、仕事の条件は難しく「強迫神経症」や 「醜形恐怖」を抱えつつのバイトは不可能に近かった。 いつ休むか分からない、労働時間は短い、週3日....。 これではバイトでも中々雇ってくれない。 妥協をすれば 神経症に触れる仕事。 そんな行ったりきったり。

そんな中、自動車整備士の仕事に喰らいついていった。 二社、条件も飲んでくれる所であった。 が、どんなに 必死に面接に行っても、結局は面接合格だけで仕事には付かせて くれなかった。 1999/9

外出と言えば、バンドのライブに呼ばれる程度だった。 でも、そこで僕が葛藤しつつドラムスを叩いていた事は 僕からは消えない。

99年の夏、とある古い友人の頼みで、「バンドを組みたいから 参加してくれ」、という要求があった。 俺は鏡に囚われつつも 出かけた。 たぶん、7月、8月くらいだった。 軽い染色剤で少し茶色に染めて行った。 茶髪は17くらいから 手を出していて、当時はそんなに今程流行っていなかった。 液体も部分染めみたいなものしか出ておらず、ほんとに 軽いお洒落程度だった。

その呼び出しで待合場所まで行った。そして茶店に入る。 そこからはバンドの方針とミーティングみたいのものが 始まって、面識の無い女の子が一人と、中学からの顔なじみが 3人居た。 俺は当然、オーラみたいな物が無く当時は 太っていておどおどとしていて、その女の子にもあんまり上手く 自己紹介が出来なかった。 目が見れないという奴か。

その女は煙草を吹かし、俺の状態を逆手にとって バンドとは全く関係のない、俺の容姿を指摘してきた。 それだけ彼女にすれば、俺が気になって仕方が無かったのだろう。 「笑いの種にしたい」・「自分より見下げてみたい」 そういう感じに取れた。

-君って...松井に似てるね.....。-

俺が無口なのを友達は知っていて雰囲気を取り繕ってくれた。 俺は顔が引き攣っていたとおもう。 人を言葉で瞬殺に出切る位の 名詞だった。 Gの松井。...... ジャイアンツの松井氏.....。 ...ゴジラ.....顔がデカイ....肌が潰れている...脂性の様な... 髪型....目....鼻....口.... 俺は野球なんかに興味は無いが、その人名が後に「強迫観念」 となって私を苦しめた。 当時は聞き流す事なんて出来なかった。

この壁を乗り越えたい、この壁を見返してやりたい。

その年の秋、二度目にその女の子とミィーティング をした。 僕は3ヶ月人生で始めてダイエットをし痩せた姿に 鍛え上げたんだ。その女、その女は、ただ笑うだけ....笑う女。 

この女と出会ってなければ真剣に向き合って無かった。 起爆剤が自分に着火し点火するなんて知らなかった。 人を憎む事が情けないなんて思わなかった。 それだけ 僕は 時の河に 孤独に 流されていたんだ。

必死になってたんだ、必死になった。美しい緑が、真夏の太陽に泳いだ1999年の夏休みは既に終っていた....。


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