
|
等々、二十歳も終り僕は死ねずにいた。
相当苦しんだ、もがき続けた。
家庭内の罵倒、家庭内暴力はより一層酷くなっていった。 この病気は治らないまま、地獄を見るのだ。 そうだ、生き地獄なのだ。 そう思えば両親だって 家族だって、殺せたし、破綻も出来た。 思考は完全に 分裂症のような状態になっていた。 どうすれば絶望から開放されますか? 僕は3月も終ろうとしている中、気が狂って 親戚の親父と親父、救急隊に服を引っ張られ。 引篭りに良くあるパターンだ。 無理矢理、精神病院 に連れて行かせようとされた。 お気に入りの赤い服がビリビリと抵抗し破れていく。 その光景が切なかった。 俺には4歳上の兄がいる。その兄が冷静に俺を 宥めにきた。普段は兄貴は仕事も忙しく、俺には冷たかったが 気が狂った時、泣きながら「お前は頭が良いからやっていける」 と、寄り添い囁かれた。 本当の母親に包まれているような 暖かい感覚だった。 ゆっくり兄貴の指示に従い冷静になって 察と救急車で家から遠い閉鎖病院に連れて行かれた。 争いは昼だったが、病院に付くと既に深夜になっていた。 俺は入院なんてしたくなかったが、そのまま「任意入院」 という容で俺もなくなく頷いた。 ほんとは皆、怖かった...。 閉鎖での暮らしは、短かった。 最低一週間居て下さいと言う モノだったが、俺は病気の程度で言うと軽い分野に入る らしい。 人との対応性、読解力などは一般常識より上だと認識された。 僕はここで一言、重要なことを書き記したい。 僕はこの閉鎖病棟に居た事を否定したくない。 ここで俺が接した、一部の看護婦さんの俺への対応 が無ければ、そうこの時点でのこの閉鎖での人との接触 他人への接触が無ければ、僕は完全に死んでいた。 僕は少なからず、ここの看護婦さんに心を打ち明けられた。 その顔ぶれは今でも心に焼きついている。 薬も飲まされていたが 人との接触が僕を認識してくれた、受け入れられたという 事だった。 本当に有り難いと願う。 主治医は嫌な奴だったが、看護婦さん達がとても優しかった。 僕はずっと手拭で、醜い部分を隠しつつ会話をした。 ここで僕の、対人恐怖の割合を占めていた醜形恐怖 (対人恐怖圏醜形恐怖)は完全に治まった。 そう言っても過言ではない。 院内で21歳の誕生日を迎えた後 退院は直ぐに来たが、(花粉症が酷かったな...)家に帰るタクシーの中で見えていた、桜の木々は覚えている。2001/4 そのあと数ヶ月して、自宅で過ごしたが反動が(反跳現象)が出た。 薬の効果の切れ、環境の変化など。6月から本格的なダイエットもしていた。気が付けば8月半ば、僕はまたのたうち回った。 強迫観念に殺される。両親を殺せば何かしら漠然とした呪縛が解けるんで無いか? 僕は両親を殺そうと何度も思い、いつのまにか刃物を片手に持っていた。2001/8 僕はそれを勇気と呼ぶのかどうでもいい。 ただ僕の中の 理性が凶器を捨てて、素手の拳で親父の顔面を懇親に殴りつけた。 デカイ親父は吹っ飛び、俺はこの親に育てられた 化けの皮を剥いでやろうと、体が震えていた。 気付けば親父の鼻は折れ、親戚や近所の連中、察に救急車が俺を 取り囲んでいた。そのまま俺は、親戚の親父にも殴られまた精神病院へ行くがその日、そこの医者に言われた一言が俺に鞭を打った。 「入院するのも 普通に暮らすのもお前次第」 「自分でケツを叩いて、社会に戻るのもお前の心次第」 この病気の病理を通して、この言葉は物凄く大事にしている。 それ以来僕は心を入れ替え、長くなった髪を切りに行き 短髪にして、金髪にした。 もう僕の心に臆病と迷いは 殆ど無かった。 性格が変わったのか。 無口で大人しい 人間が、物凄い勢いのある人間に変わった。 変貌した。 薬のせいかも知れない、アナフラニールが効きだしたのかも知れない。 僕は、この日を皮義理に一人でクリニックへも行き 一人で遠出をし、一人で服を買いに行き、一人で人と喋り 自分から喋りかけ、2001/8/19に等々、習い事を申し込みに行き。 あの頃のように僕は外に出られる人間になった。 この生きている絶頂、幸福、8月の日差しが僕には一生忘れられない。 |
| SEO | [PR] 転職支援 花 紅葉めぐり 冷え対策 | 動画 無料レンタルサーバー ブログ SEO | |